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日本と中国


上海の交通事情は半端ない。まじでデンジャラスドライビング。日本の感覚でいると心臓がいくつあっても足りない。まるで違うスポーツを体験しているかのよう。クラクションも注意を喚起するものではなく、感情を表現するものになっている。一見、マナーがなく不合理で危険にすら見えるものが、当の中国人は、これはこれでうまくいっているのだと言う。自分だけではコントロールのしようもない途方もなく巨大なものを前に異議を呈していても仕方なく、不合理に思えるものでもそれにのっかってみて、そこで問題がなく上手くいっているのならいいじゃん的な考えかたのようだ。これは社会の体制や政治に対する態度にも同じようだ。古来より中国人には政治や社会を語ったり関与しないというのがDNAとして刻まれているとのこと。どうしようもなく巨大なものと対峙せざるをえない状況下における生存戦略のように思われる。 北京大学のとある有名な教授が、日本や欧米に留学した中国人が本国に戻り生きていく際には、もう一度他国へ留学するという気持ちがないと再び順応することができないと述べたとか。

中国の施工精度、システムやサービスも確かに荒い。その点、日本は素晴らしいものがある。けれども、その荒さは失敗に寛容であるとも言える。寛容過ぎるのも問題なのだが。昨今の日本をみると、失敗や間違いが許されず、吊るし上げの対象にすらなってしまっている。正義を成り立たせるための格好の餌食のような。ひとたび失敗をおかしてしまうと二度と立ち直れなくなるのではないかとすら感じてしまう。これではリスクを冒してまで挑戦はできない。挑戦には失敗がつきものではあるし、それを叩き過ぎると社会全体が保守に向かい、次への道のりが閉塞してしまう。もちろん失敗や問題はよくないのは当然なのだが、そこからのデータを得なければ成功もない。これまでにない前人未到の成功というものは、いつの時代にも数えきれないほどの失敗の先にしかないのだ。いかに失敗や問題などといった不具合と付き合うか、問われているように思う。 建築やシステム、サービスの精度に問題があるこの中国で、失敗を恐れない挑戦が次々と生まれているというのも事実である。

日本に生まれ育ったものとしては、中国の状況は一見すると荒く、劣っているとすら思ってしまうかもしれないが、一度立ち止まって大きく頭を切り替え、もし中国がスタンダードだと捉えるならば、そこからみえる日本の社会にはいくつもの問題が浮かび上がってくるように思われる。 日本に必要なものが中国にあり、中国に必要なものが日本にある。一つの世界に閉じてしまわず、多視点で、ものごとを考えるということがいかに大切かを改めて考えさせられる。

ちなみに町中には電動のバイクがバンバン走っており、ある者は道路を逆走しており、ある者は歩道を我が物顔で走っているが、まだ法整備が追いついておらず、運転するのに免許すら必要なく、なんでもあり状態だとか。活気があってよいのやら、めちゃくちゃなのやら。

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