じいちゃんの三回忌
じいちゃんの三回忌のため京都を訪れていた。
あれから三年。
養老のばあちゃんが亡くなって七年。
人が死ぬということに僕は未だに決着をつけられないでいる。
けれども苦悩が続くかというとそうでもない。
ただ、日々の忙しさに忙殺され、考えることをしなくなってきているだけ。
結局のところモノゴトなど全てそんなものなのかもしれない。
真理とは追求すべきものではあるが、たどり着けるものではない。
全ては、もっともらしい仮説で動いていて、誤読といい加減さによって回っていく。
このことは、どこまでも不完全であり不安に思えて、実は希望なのかもしれない。 生まれたばかりの赤ん坊が二人。
亡くなるものもあれば、生まれてくるものもある。
全ては、わからないままに、それでも回り続けている。


小心地滑
中国にいると、あちらこちらで「小心地滑」という言葉を目にする。
本来は、足を滑らさないように細心の注意をという意味であろうが、
大胆不敵な中国社会を目の当たりにするに、小心者は足元をすくわれる、という意味のようにも思えてくる。


深センプロジェクト
深センプロジェクト、現地でクライアントへの中間プレゼンと打合せを終え、無事帰国する。 クライアント、プロデューサー、ローカルの組織設計など、関係者が一同に会し、7時間ぶっ通しの打合せを行った。
集中力を切らせられないとても密度の高い打合せが長時間続いたため、終わった時にはさすがにふらふらになった。 延べ床面積が6万㎡にも及ぶ、異種用途が混交する巨大で複雑な建築を設計するに際し、
今回の打合せを通して、これまでに語られてこなかった新たなアイディアが出てくるは出てくるは。
常に流動的であることは、既成概念に捉われ過ぎたり、事なかれ主義に陥るよりは、建設的な議論やクリエイションを発動できるというよさがある。その反面、場当たり的で、気まぐれのようにも思え、少々不安にも感じる。 やはり、コンセプチュアルな世界観をつくりあげて欲しいという感じであった。
建築を設計する以前に明確な理念やコンセプトが存在しているわけではなく、あやふやなまま、むしろ建築の設計を先行させることによって、その世界観により理念やコンセプトを導いていって欲しいといった感じである。
苦悩
とある学生の相談にのる。そのおかれている環境の中で自分を見失いそうでいる。
なにも彼女だけではない。これまでもこのような状況は、見聞きしてきている。 みんな苦悩している。
果たして、この社会は豊かになったのだろうか? 過度な競争に晒され精神を消耗し、過度な効率優先主義により思想が奪われている。
そんなに走らされて、その先になにがあるのか?目的すら見失っている。 本当にその人のためか、いやいや、効率化がその人をすら超え、自走してしまっている。
これじゃ誰のためか、なんのためかわかったもんじゃない。
こんな時代に、違和感をもってあらがい続けるのはなかなかにしんどい。 僕たちの親の世代のほうが豊かな社会であったのではないかと考えてしまうときがある。もちろんその時代にはその時代の苦悩というものがあったのであろうが。 とある建築家の大先生が講演会で地球のことを考えているとかなんとか高尚なことを言っていたが、もちろんそれも大切なことではあるが、周りに苦悩している人々がこれだけ多くいるのに、それに目を向けないでどうする。 建築は人のため以上でも以下で